2011年2月19日土曜日

種を蒔く人

僕は倒炎式単窯、
恩師である岩渕重哉先生考案といわれている
通称「イッテコイ窯」を使って焼いている。

直接先生に聞いた訳ではないが、大学の窯場にあったのと、
加守田章二の図録に年譜があり、そこに表記されてるから、
そうであろう、と思ってる。


もう早いもので、25年になる。

家業の産業としての「やきもの」とは違う、
美術工芸としての「やきもの」に初めて触れた。
それは岩渕先生や東憲先生がそれぞれひとりの陶芸家として形成された存在だったからだと思う。
今までの中学、高校の先生とは全く違うオーラを帯びてた。


おそらく、想うにその時点で僕のなかに種を蒔かれたのだろう。


ただその当時は、余りにも若く、
まったくどうしようもない鼻クソのようなもの、
今から思えば反省しきりである。
なんとなく課題をこなしてバイトに明け暮れた学生時代。
卒業式でさえ、ちゃんと先生に挨拶した記憶がない。


もしもタイムマシンがあれば、
その当時の自分に会って後ろ頭を
スリッパで「バチィ〜〜〜〜〜〜ィン」と
、思いっきり張り倒したい!。

せっかくのタイムマシンなのだから、
もっとロマンチックなことに使えばいいのだが、、、。

それでも、僕のなかの種が発芽したのか、
卒業後、自分の思いを形にして、作り出した。


卒業後、数年した頃、

京都市美術館だったと記憶してるが、
岩渕先生とバッタリ顔をあわせた。


「ごぶさたしております」と挨拶。
心臓が飛び出るかと思った。

その時の岩渕先生は、穏やかに、
「おう、元気にしてるか?」

僕は、「はぃ」。

「がんばってるみたいやな、またうちに遊びに来い」

ほんの数分の会話だったと思うけど、
美術館を出た時、胃がすごく痛かった、それほど緊張してた。


緊張感が去った後、
なにが嬉しかったって、「憶えてもらえてたんや」、「見ててもらえてたんや」って。
当時、片っ端から公募の展覧会に出してた、
通してもらったのもあったけど、落ちたのも多かった。
ただ時間もあったし、がむしゃらやったように思う

岩渕先生と再会し、遊びに来いと言われたけど


その後間もなく、先生は身体を悪くされて数多くの教え子を残して、世を去られてしまった。


先生の元に遊びに行くことは叶わなかったけど、

僕のなかに蒔かれた種は、たまに踏みつけられながらも、
まだ枯れずに少しずつ育っているように思う、

というか、いろいろな人に育ててもらっています。

もしも、、、

もしタイムマシンがあれば、
卒業式の日に、ちゃんと挨拶しなくては。


「ありがとうございました」って。