2011年3月23日水曜日

案内状作成

4月14日から20日まで池袋東武で個展を
開催いたします。
今日、その案内状を作成し、入稿しました。
あとは作品づくりに追い込み状態です。



2011年3月21日月曜日

前を向いて

日本が震れた。


被災地はもちろんのことだが、10日経った今でも、
日本国民すべての人の心は揺れ続けていると思う。
僕自身も、当日の震れはなかったにしても、
その後の情報には、言葉にならないものがあり、
なかなかブログにも手が進まなかった。


僕の展覧会予定として、来月4月14日から20日まで、
池袋東武で個展が決まっています。
震災後1ヶ月の展覧会、当初どうするべきか、考えました。
するか、しないか、を含めて。
でも東武美術部の友成さんと話していて
「やりましょう」の言葉で、心は決まりました。


今現在、被災地で「生きる」ということに、
すべての力を注いでいる人、
原発での鎮圧作業に命を掛けている人間がいる中、
僕達健常な環境の中にいる人間は、その人たちに敬意を表して、
せめて100%の力で自分のやるべきことをしよう。


東へ行って、恥じることのない作品を作りたい、
今は、そう思っています。


2011年3月11日金曜日

波長

「波動において、波の山と山、谷と谷の間の距離」と
辞書には書いてある。
音的に言えば、ある一定のリズムを刻んでいることだろうか。
このリズムを上手く刻んで、ループしていくことで、
心は安定して平穏を保てる。
でも以外と一定の波長を保つこと、って
以外とに難しいことだと最近思う、
モノを作る時の「ノリ」の波長を上手く掴むことが非常に難しい。
気がつけば、不協和音を刻んでいることが多いのだ。

もう何年もこの仕事をしてると、「いい状態」というのを、
何となく解っているのだけれど、その波に上手く乗せることが重要。


人はそれぞれバイオリズムと言う波長を持っているから、
心地よいリズムを刻んでいる人と会い、共鳴させ、
自分の波長を正常化させることができれば、
また一歩前へ進むことが出来そうな気がする。

2011年3月7日月曜日

展覧会廻り

先日、時間を作って、京都大阪で開催してた知人の展覧会を見てきました。

まず、京都高島屋で木村展之展。
同年生まれの彼とは、20代前半から、
よく一緒に展覧会をしました。僕にとっては一番多くグループとしての
展覧会に絡んでるのではないかな?
始まりから、ほんと一緒に切磋琢磨しながら今に至ってる、大切な存在です。
今回の展覧会も、シャープな器形に、鮮やかな青が印象的な展覧会でした。


その後、大阪の「ギャラリー縄」で開催してる、大澤恒夫展へ。
大澤さんは今までお会いできなかったのですが、
今回はタイミングよく、在廊されてて、お話させていただきました。
イメージ通りの、古備前な人でした。
話してても楽しい方ですし、見た目に比例して豪快ながら、おおらかな人でした。
その後、なんば高島屋で打ち合わせをして、
梅田阪急で個展をしてる渡辺愛子展へ。
彼女は、僕の大学の後輩です、(陶芸科卒業ではないのですけど)、
彼女は伊賀で本格的に薪窯焼成してる人で、
女性としては本格的な薪窯焼成のパイオニア的存在であると思います。
これまで見た焼締め作品に加えて、施薬した器もあって、
これからどんどん進化するであろう彼女にとても期待しています。
渡辺愛子本人も気さくでとても可愛い女性です。


僕にとっては、みんな同世代。
今、生きている中で皆、
もがきながら存在意義を確立しようとしています。
僕自身も同じなのだと思います。
僕らの世界はそれぞれ個々の世界があり、
比較対象するには難しいのかもしれないけど、
認め合える存在を意識し、
自分自身に問える視点を持つことが必要と感じます。


そういうことなんかを考えてたら、、、

僕は自分の周りの存在に、とても恵まれてると思います。


2011年3月6日日曜日

「響」













松江にある田部美術館主催「茶の湯の造形展」で奨励賞をいただきました。
6年前に「雫碗」での受賞以来2度目、今回は「響碗」と名付けました。

2011年3月1日火曜日

共鳴すること

僕たちの作るものは、それ自体が言葉を語ることはない。

でも作る本人にしてみれば、
そのものに、なにかしらの想いを込めていると思う。
その意志の強さが、
そのモノに波動ともいう言葉ではない
「響き」を伝えるのだと思う。

美術館に展示してある作品に
講釈を並べ立てられて聞かされたら、ウンザリする。
ほんの少しのヒントを与えられるだけで、
名品は心に響いてくる。
はずである。

鑑賞する自分も、じっとそのモノと対峙して、
心に響いてくるものと共鳴する感覚が大切なんだと思う。


僕自身の作るモノも、
そういう波動を帯びていれば、見る人に伝えることができるし、
響き合い、共鳴できることだろう。

いつの日かそうありたいと願う。